お散歩するとマジで気持ちがいいって話
最近、とっても疲れている。
なので、出来るだけ疲れていないと思い込むことで
ごまかしている。
この思い込むというのは僕の中では最強に効く薬だと思っている。
40をすぎたころ、老眼になったようだ。
それから年々、見るという作業に疲れを感じるようになってきた。
認めたくはないが、認めざる負えない現実。
さらに、ここはてなブログで、ブログ書いていると
他のみんなが書いている記事も気になったりして
別になにかの目的があるわけではないが、はてなの新着や人気の記事などを
チェックするようになってきた。
すると、さらに目が疲れてくるのだ。
いわゆる、これがスマホ老眼ってやつなのか?
目が疲れると、頭が疲れる。っていうよりも目から全身に倦怠感が流れ込んでいるようだ。
ブログを書いていると、僕の心の中に
「いいことを書きたい」
「面白いことを書きたい」という要求が生まれる。
ブログをしていない人からしたら、「それがどうした?」と思われる要求だろう。
この「いいことを書きたい」という気持ちは理解できない人には理解されないものだろう。
この要求が満たされる喜びはブログを続けるうえでプラスになっているが
あまり、そればかり考えていると
「いいこと言う選手権」に巻き込まれているようで、疲れてくる。
たまに、この「いいこと言う選手権」とは違う場所にいるブロガーさんを見ると
うらやましく思う。
でも、その「うらやましい」は僕もそうなりたいと願う「うらやましさ」ではなく
自分にはない優雅なものに対するあこがれであって、真似するかどうかは、また別の問題だ。
とにもかくにも、僕はネットに疲れている。
その楽しさと引き換えで疲れを甘んじている。
しかも、寝ても疲れが取れない。
もっと、積極的に頭の中をクールにしたい。
野生に戻る。自然に帰るような爽やかな空気を自分の中に取り組みたいと願うようになった。
すると、自然に家の外に出たくなってくるのだ。
外の空気を気持ちよく浴びながら、近所をお散歩する。
ここ最近、そんな散歩がとっても気持ちよく感じるようになってきた。
昔から散歩は気持ちよかったが、ここ最近は時にその気持ちよさが身に染みてくる。
目が休まるような気がするからだ。
実際は休んでいないけれど、スマホや、パソコンの光から解放されるという意味での休まる気がするということだ。
本当に気持ちがいい。
お散歩、最高。
出来るだけ、良い返事を持って帰ってもらう。
パートの吉田さんが1週間連続で1番レジに入らされていることに不満をもっていると伝えに来たパートさん。
1番レジとは、出口に一番近いレジである。1番混みあうレジである。平日でも1番レジにお客様が並ばない時はない。台風でも来ない限りは1番レジに気の休まる時間はない。
対する3番レジや4番レジはお客様が途切れる時間もあり、割とほっとできることがある。
ちなみに5番レジや6番レジは平日は混んだら入る程度である。
だから、一番忙しさを感じるのは1番レジである。
ちなみに私はわざと吉田さんを1番レジばかりにしたわけではない。
たまたま後半のアルバイトの入る時間や、他の従業員の適性などを考えてそうなったことが続いただけだ。
なぜ吉田さんは直接シフトを組んでいる私に言ってこないのか?
それは、言いにくいんだろう。
わがままだと思われたくないから自分で言うのを遠慮することがある。
だから、周囲に愚痴をこぼしてしまう。
私は、その伝令を聞いた時、すでに次のシフトを作り終えていた。
しかも、たまたまではあるが吉田さんはレジから外していた。
そのことを伝令者のパートさんに伝えた。
すると、伝令者であるパートさんは、自分のことのように喜んでいた。
なぜ喜ぶかと言うと、良き知らせを吉田さんに伝えることが出来るからだ。
熱き食品スーパーの一コマでした。
めでたし。
素直でない人に「素直になれ」と指導されたことで学んだこと
居酒屋の師匠に弟子入りしたことがある。
私を半年で一人前にするため、とても厳しく指導して下さった。
そこで口癖のように言われたのが、「もっと素直になれ」だ。
教えてもらう立場の人間が素直になることは必要だ。
教えてくれる人が長年試行錯誤して身に付けたことは素直に従う。
それが仕事を覚える近道になる。
しかし、師匠は全然素直ではなかった。
自分と違う考えの人には絶対に折れなかった。
どれぐらい素直でなかったのか?
それは、頻繁にお客様と口論になっていたぐらいだ。
クレームも多かった。
師匠には、道ですれ違ったら思わず避けてしまうような威圧感があった。
なので、師匠ではなく私たちにクレームを入れてくるのだ。
「なんだあの店長は?他の客と煙草をぷかぷかして、バカ騒ぎして、」と言われたことがある。
カウンターに座っている常連客の横に座り、世間話をする。小さな居酒屋ならではの接客として、これはこれでいいかもしれないが度が過ぎている。
ゆっくり一人で飲みに来た店で
自分が座っている横で、煙草をぷかぷかしてバカ騒ぎをしている大男がいる。
その大男が自分と同じ客なら、それはそれで仕方がないことだろう。
しかし、嫌でも耳に入ってくるその大男の話を聞いていると、どうやらこの店の店長であることが分かった。
これは不快に思う人がいて当然だろう。
しかし、こんなクレームが来ても私たちは無視である。
師匠に忠告してもキレられるだけである。
ではなぜ師匠は「素直になれ」を口癖にしていたのか?
それは、経営の神様と言われる松下幸之助さんを尊敬していたからだ。
松下幸之助さんは「素直であることの大切さ」を説いていた。
毎日、夜寝る前に「今日は素直で生きることが出来たか?」を思い起こしていたらしい。
つまり尊敬する松下幸之助さんの言葉に影響されていたのだ。
「素直でない奴は成功しない」と言っていたこともある。
なのに、なぜか本人は素直でなく、周囲の人間に素直で従順であることを求めるのだ。
ツッコミどころ満載の師匠だが、私は素直に徹した。
とはいっても形だけであるが、毎日ボロクソに叱られても、自分を押し殺した謙虚な姿勢をみせた。
そのかいあってか修業期間が終わった後は褒められた。
「お前、よく俺の地獄の修行をのりこえたな」と。
テレビでよく見るラーメン屋の修行で弟子がボロクソに叱られる光景。
それとまったく同じかそれ以上の地獄であった。
確かに平穏な日々の中では絶対に味わえなかった厳しさは自分の中では勉強にはなったと思う。
しかし、もう二度とこんな修行はしたくないというのが私の素直な気持ちだった。
そんな私ではあるが、店をオープンさせたのに、わずか半年で店を閉じた。
お客様が思うように入らなかったからだ。
ちなみに私が弟子入りしたとはいってもフランチャイズの会社の中での弟子入りだ。
そこのフランチャイズはオーナー契約という1千万以上出せる人は自分で店をどの場所に出せるかを決めることが出来る。
私は加盟店契約といってそれよりも全然少ない資金で店を持たせてもらえる契約だ。
その場合はフランチャイズの会社が指定した店を与えられる。
私が与えられた店は過去に5人の店長が辞めた店だった。
儲かったのは最初の二人だけだ。
私が、店を閉じることを師匠に伝えた。
すると師匠は今までになかった優しい言葉をかけてきた。
「熊君、俺のところに来い」
「お前がその気なら、うちで頑張れば、そのうち俺がお前に店をもたせてやる」
「ここでお前がこの世界からいなくなるのはもったいない。俺はお前を認めている」
修行時代では考えられないほどやさし気な口調だった。
しかし、私は分かっていた。
アルバイトが開店前にちょっとしたミスをした時に、「やる気がないなら帰れ」と椅子を蹴飛ばしたり、何年も前に独立した弟子を自分の誕生日に呼び出して理不尽な説教をしたりといったことをする師匠の性格をわかっていたのだ。
師匠は、自分の周囲が自分の思い通りに動かないとキレるのだ。
だから、素直で従順に見える私を求めていたのだ。
しかし、私が素直で従順だったのは、半年間だけの自分を押し殺す覚悟のうえで我慢したものだ。
それでも・・・
普段、人を認めない師匠が自分を認めてくれる。
優しい言葉をかけてくれる。
たしかに気持ちは揺れ動いた。
しかし、「もう自分はこの世界ではやっていけません」ときっぱり断った。
私はせっかくの師匠の誘いを断って良かったと思っている。
素直に生きる
それは素晴らしい教えにもなるが、時にはただ相手をコントロールしたいがための方便にもなるのだ。