ありがとう熊さん

食品スーパーのおやじが、生き方について辛いことも楽しいことも含めて、心を込めて書かせてもらいました。

長い年月と多くの先輩方が今のやり方をつくってきたという重み

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私が賃貸不動産の営業の会社で勤めていた時のことだ。

 

会社でもトップクラスの営業成績を誇る先輩に仕事を教えてもらった。

 

何度も何度も、話の持って行き方を教えてもらった。

 

しかし、私は教わった話の持って行き方に大きくアレンジを加えてしまった。

 

なぜ?それは、自分を出したかったからだ。

 

俺には俺のやり方があるという若かりし、血気盛んな時期だった。

 

しかし、それでも契約が取れた。

なぜ契約が取れたのか?

それは、急ぎで部屋探しをしているお客様だったからだ。

 

つまり、よほど変な営業をしない限りは契約する気満々のお客様だったからだ。

 

そんな私の姿を見て先輩は「ずいぶんアレンジを加えたんだな」と言った。

 

「あっ、怒られる」と私は身構えた。

 

そんな私に先輩はつづけた。

 

「もしかしたら熊君のやり方が正解かもしれないな」と。

 

「いきなり何を言い出すんだ?」ときょとんとする私に先輩は・・・

 

「この営業はまだまだ改良の余地はあると思う。まだまだ俺のしらないやり方があると思う」

 

「だから、熊君があっと驚くようなやり方で大成功する可能性もある」

 

「しかし、今まで長い年月かけて、多くの先輩方が回り道をしながら今の営業が出来ていることも考えた方がいいと思う」

 

「熊君が新しいやり方で成功するかもしれないけれど、その代わり俺はもう熊君に教えてあげられない。なぜかというと自分がやったことのないやり方にアドバイスできるほどの力が俺にないから」

 

と諭すように話をしてくれた。

 


私はここで自分の行動に深く反省することができた。

長い年月と多くの先輩方が今のやり方をつくってきたという重みを想像することができた。

 

その口伝のような重みを無視するのはどうだろう?

 

先輩が言う通りに、成功する可能性ってどうだろう?

 

そして、自分を出したいという気持ちで、先輩からの教えに外れて、はたして私は生き残れるのだろうか?

 

深く考えた上で、「勝手なことをして申し訳ございませんでした」と深く謝ることが出来た。

「〇〇してはいけない」は大人の勝手な価値観の押しつけという説について思うこと

情報発信者でたまに「私は別に良いこと書こうと思って書いているわけでもないし、自分の考えを広めたいわけでもない」と発信している人がいるが、そんな人はそもそも発信などしないわけで批判をお手軽にかわすための嘘であろう。

 

そのような人の発信で興味深いものを見つけた。

「~~してはいけない」と言うのは子供に大人の勝手な価値観を押し付ける行為だと発信して称賛を浴びている先生だ。

おそらく彼は子供時代に素晴らしい先生に出逢わなかったのだろう。

ここで問題なのは全ての「~~してはいけない」を大人の勝手な価値観の押しつけと決めつけていることである。

全ての「~~してはいけない」と言う行為が勝手な価値観を押し付ける行為だと断定してはいけない。その教えは社会的に損をしないための大切なことであることもあるからだ。

大人の勝手な価値観の押し付けかどうかは、状況やものによって判断されるものだ。例えば極端な例だが「麻薬に手を出してはいけない」を勝手な価値観の押し付けだという人は少ないだろう。

こういったたぐいの先生の「正論をふりかざして叱るのは相手をコントロールしたいだけ」という主張は一見なるほどなと思わすものだが、それはルール違反を黙認する主張になる恐れがある。

僕は、子供時代に学校の先生に「~~してはいけない」と教えられたことで感謝していることが少なからずある。

例えば、子供時代に口をずっとポカ~~んと開けている癖があったのだが、ある先生から「熊君、そのくせをやめなさい。口を閉じて見なさい。ほら、そのほうが賢く見えるよ」と言われて、それから意識的にそのくそを治すように努めた。これにはとっても感謝している。

世の中には、好きなことして生きていくという教えが流行っているが犯罪者に免罪符を与えないか?の答えに先生はこう答えている。

「ではホームセンターに包丁が売ってるのはどうする?」のとんちんかんな答えだ。

問題なのは凶器が目の前にあることではなく、それを使う人間の考えを危険な方向に導くことに問題がある。

つまり、大人の勝手な価値観の押しつけかどうかは個別に判断されるものであり、なんでもかんでも「大人の勝手な価値観の押しつけ」と決めつけてはいけないのだ。

「お金は使っても減らない説」はお金に不安を感じている人たちを集客するためのもの

今、一部のコミュニティーの内で

 

お金は使っても減らない説が流行っている。

 

水は使っても減らない。

空気は吸っても減らない。

 

なのになぜ、お金は使ったら減ると思うのか?

それは減ると思い込んでいるからだ。

お金は水と同じで循環しているものだから減らないものだ。

 

世の中の多くの人はお金は使ったら減るものだと思っている。

しかし、なぜ「お金は使っても減らない説」を先生と呼ばれる人は出してくるのだろう?

 

僕には、当たり前なことを言っても誰も振り向いてくれないから、わざと常識とは別の説を出して目立とうとしているようにしか見えない。

 

なぜ目立とうとするのか?それは自身の集客のためだ。

目立てば、自分のセミナーに客を多く呼ぶことが出来る。

しかも、厄介なことに、そういった先生は多くの信者たちに支持されている。

セミナーは大盛況。お金持ちになっている。

 

実際にお金持ちになっているから、その説に説得力をもたらし、多くの信者たちに「勉強になりました」「目が覚めました」などと感謝をされている。

 

「お金は使ったら減ると思い込んでいるから減るのであって、それは自分自身が勝手に心の中で決めていることだ」と言われると信者はそれを信じる。

 

「お金は使ったら減る」というのはとても悲しいことに感じるが

「お金は使っても減らない」はポジティブな気持ちにさせられるのだろう。

 

そうして安心感を得た人が感謝の言葉を発信する。

お金は無くなると以前は思っていて必死で働いてきたけれど、その考えをやめた途端に以前のようにお金に困らなくなりました。

 

やっぱり、先生の言っていることは正しいと、やっと分かってきました。

「お金はなくなるもの」と思っている人のお金はなくなるものなんですね。

これらの信者たちの感謝の言葉がさらに「お金は使ってもなくならない説」を強固なものにしている。

 

確かに、使う金額よりも入ってくる金額が多ければなくならないだろうが、それは日本人全員に当てはまることなのだろうか?

 

そういった違和感を感じている時にこのような記事を昨日に見つけた。

 

topics.smt.docomo.ne.jp

 

 

この話に出てくる30歳の長男は

 

お金はあるものだと決めつけているように感じる。

 

そんな彼が、このような「お金は使ってもなくならない説」を信じるとどうなるのか?

 

しかも、先生は、その人の状況に合わせた細かい発信ではなく

 

「お金は使っても減らない」と言い切っている。

 

全ての人に当てはまる教えだという前提で発信している。

「お金は使っても減らない」と金持ちに言われると庶民はそれをありがたがる。

 

そして、感謝の言葉を述べるのは、完全にお金が無くなった人ではない。

何とかなっている人だ。

何とも行かなくなった人は批判の言葉すら発信できない。

ネット代も払えないからだ。

 

そこまで使い込んだ人の声が聞こえて来ない。

 

不安をぬぐいさる言葉は耳障りが良く、先生にとっては信者を獲得するのに便利な代物だろう。

そういったビジネスが透けて見える。

姑息な真似をしやがってと思ってしまう。