道徳観やモラルという固定観念が悩みの原因になっていると発信することについて
みんなが安心して生活出来るようにと長い年月をかけて作られたモラルや道徳観.
しかし、それを否定することで、自分の方法論を目立たせ集客をしようとする人たちがいる。
いわゆる既存の道徳観と言う概念を覆すと言った内容の発信だ。
「〇〇してはいけないというのは固定観念です」
「その固定観念が悩みの原因になっています」
と言う内容だ。
なぜこのような発信をするのだろう?
その先生の意図は誰もが持っている道徳観による行動の制限を悩みの原因にすることで今までにない悩みを消す方法だと思わせて集客したいのだ。
先生は、甘い言葉で私たちを誘惑してくる。
「欲しい気持ちは素直に口に出そう」
「それが自分の気持ちを大事にすることに繋がり幸せになれる」
と先生は言うが、相手の気持ちを大事に考えず「あなたの心が欲しい」と言うと相手も自分も傷付くだろう。
欲しい気持ちを素直に口に出すことが幸せにつながるのならストーカーは存在しない。
欲しい気持ちを素直にぶつけたほうが幸せになれると言う先生の教えを例えば営業マンが実行したらどうなるだろう?
「契約が欲しいので契約下さい」と。もし僕が客なら欲しがるだけで与えることを考えない営業には契約しないだろう。
自分の気持ちが第一で顧客の得を考えない気持ちが透けて見えるからだ。
また、先生は「嫌われる勇気を持とう」という言葉が好きだ。
あのベストセラー本の内容に影響を受けたのかもしれない。
しかし、嫌われて不幸になる人もいる。そういう人を先生は救うことがs出来ない。
「どうせ私は嫌われているから嫌われようとバンジーすると幸せの海にダイブ出来る」という先生の妄言を信じて居場所をなくしたカモに先生は「おめでとう、あなたがいるべきではなかった場所から解放され、新しい場所に出発出来るね🎵」ときれい事を言うだけで新しい場所はカモ自身が探さなければいけない。
また、「職場で叱られたら『馬鹿にするな』とキレましょう。職場で自分ばかり損な役割が回ってきたら不機嫌になりましょう」とアドバイスする先生がいる。
それが自由にになれる道だと言うが、駄々をこねる子供時代に逆戻りする道だ。
幸せになれる方法論というのは、様々なものがあり正解が分かりにくい。
そこに面白さが存在するから、この手の先生が出てくるのだろう。
例えば、釣り方の正解が分かりやすい魚より、釣り方の正解が分かりにくい魚のほうが釣りのターゲットとしての人気が高い。
釣り人それぞれが自分なりの正解を探っているからだ。
幸せになれる方法論も人それぞれが自分なりの正解を持っているように思う。
うまくいく方法論は本物よりも偽物のほうが読んでいて面白い。
本物は「それもそうだな」と一言で終わらせられるが偽物は「嘘だろ❓」「マジか?」「目から鱗が落ちた」と驚きの声で迎えられる。
それを利用する詐欺師が暗躍する世界が、うまくいく方法論業界だ。
しかし、多くの人を甘い言葉で引き付けようとするその内容に苦言を呈すものも多く出てくるものだ。
そういう時、先生はこのように反論する。
「そのまんまの考えでうまく行ってないくせに私の教えを批判する資格はない」と。
先生はこう言ってどや顔でいるが、そのまんまの考えから先生の考えに乗り換えても成功から遠ざかるからやらないということだ。
そこに気付かない鈍感な先生。
相手のことを考えず自分だけのことを考える先生の幸せ論。
規模が拡大するにつれ、その都合の良い考えはどんどん膨らんでいっている。
「人に助けられる人と、人を助ける人は半々でバランスがとれている」と発信するようになった。
確かに一理あるなとは思う。そのこと自体は良いが、問題はだからこそ「駄目な自分のままで助けられる人」になろうと煽ることに勘違いの悲劇が生まれる。
一人の人間の中にも助けられる部分と助ける部分があることを忘れてはいけない。
「彼が冷たい」
「一緒にいてくれない」
「文句ばかり言う」
「わがままばかり言う」
そんな女性の悩みに、「それは愛情が形をかえただけで愛はあるんだよ」と言って救った気でいる先生がいる。
愛という奇麗な言葉の表現に惑わされてはいけない。
愛が形を変えたとしても嫌な形になることもあるからだ。
なぜ、先生はこのような奇をてらった発信をするのだろう?
先生は、ある意味で自信があるのかもしれない。
このまま同じことをしていても上手く行かないと判断して今までと逆の発想でやってみたら上手く行ったという経験は誰にでもあるだろう。
たまたま上手く行ったことで再現性の低いことかも知れないのに、そういうことのほうが記憶に深く刻まれ〇〇の法則と名前をつけて誰かに聞いてもらいたくなるものだ。
しかし、そんな先生でも、最近の批判に若干ダメージが蓄積されてきたのだろうか?
その発信が若干マイルドになりつつある。
「助けてと言わないのが不幸の原因です」と言いきっていた先生が、最近は補足説明で、「ただし、助けてと言っても助けられるとは限らない」と言うようになった。
批判をかわすための賢明な選択だ。補足説明をいれることで、常識を覆す的な毒はマイルドになるからだ。
とにかく先生は道徳観やモラルと言ったものを覆すと言って注目を浴びようとしている。
「快楽をタブー視するのではなく、罪悪感のブレーキを外すと本当に求めているものが見えます。さあ罪悪感の扉を開きましょう」とどや顔で発信している。
そんな考えは性犯罪者には聞かせられない教えだね。
そんな道徳観やモラルの壁を取り払うという先生は、この教えこそが、本当の自分を見つける方法だと言っている。
しかし、そんな先生のセミナーを受けると、先生にとって都合のいいあなたが見つけられるだろう。
お金がないから受講できませんは言い訳にされて本当の自分に素直になりなさいと強制受講させられる。
先生をこれ以上もうけさせてはいけない。
私たちの先輩方が長年かけて育んできた道徳観やモラルは大事にしてもらいたいものだ。
暗記力のいらない学びって気持ちがいいよね?
今ぼくはある資格の勉強をしている。
こんなことを覚えて何の役に立つのだろうかと一種の苦行のように感じている。
しかしこの苦行を乗り越えると毎月資格手当てという名の不労所得ぽいものが入って来るのだ。
それにしても、専門知識を暗記していくのはとっても辛い。
そんなとき、「こんなことをしなくても、もっと楽に学べるものはないかな?」と思ってしまう。
そんな時に、ネット上では様々な誘惑がちりばめられているように感じてしまう。
今日もこんなメールが来た。ノウハウや屋さんからだ。
迷惑メールだけれど、何度配信停止をしても配信停止できていないから諦めた業者からのメールだ。
「熊さま、おめでとうございます。特別講座にご招待いたします」と、
しかもメールを開く前の題名は「熊さま、おめでとうございます」しか見えなかった。ひたすら残念なお知らせだ。
その内容は、企業研修なら400万円チャージしないと得られない世界最先端の先生からのノウハウが今なら無料で受け取れるそうだ。
ページが閉じられるまでに急いで受け取って下さいと書いてあるが、それが本当なら400万円チャージした会社からクレームが来るだろう。
本当にバカバカしい。
それにしても「起業塾に行って全然稼げなかったことを記事に書いたらアクセス上がって驚いた」と読者の方からコメントがあったことがあるが、やはり皆が知りたいのは真実だ。。
いろんなカウンセリング受けたのに、自己啓発や心のセミナーたくさん受けたのに、でも一向に状況は変わりませんという悩みを先生にぶつけても無駄だろう。
ウンセリングやセミナーにお金を使うのをやめましょうというアドバイスは商売上しないからだ。
結婚したいけれど、なかなか出来ない人がいる。
そういう人が占い師やカウンセラーに「どうして私は結婚出来ないのでしょうか❓」と相談しても「出来ないのではなく、出来ないと思い込んでいるだけ」という当たり前な回答しかもらえない。
そこに金を使うぐらいなら結婚相談所に使った方がましだ。
大体、ノウハウ屋さんが提供してくるメソッドと言うものはその程度のものだ。
ノウハウ屋さんが提供するお金を稼ぐ方法論は「心構え」を学ぶことにすぎない。
しかも、最近の彼らが提供する「心構え」はより一層、カモを高揚させたいがために奇をてらった言葉で困惑させようとしているように思える。
「得をしようとすると損をする」
「幸せを追いかけると不幸に追いかけられる」
「短所をなくそうとすると長所もなくなる」
など先生は言葉遊びが好きだ。
これは「何かしらの人生の真理を語っているのだ」とこちらから歩み寄らなければ理解不能で不安になるという心理を利用した信者集めにすぎない。
人生論を学びたい時に注意したいのは刺激を求めすぎないことだ。
刺激を求めすぎると、スパイスと同じでもっと強い刺激が欲しくなる。
そして奇をてらった怪しい教えに心を奪われていくのだ。
しかし、奇をてらった言葉選びであるにもかかわらず、多くの人がそれを学びたがるのか?
それは学ぶのが楽だからだろう。
仕事に直結する専門知識を身に付けるには辛い勉強が必要だ。
しかし「豊かさの波に乗ろう」「お金を愛して愛されよう」というのは、英語を暗記するような辛さがない。
専門知識と違い暗記力は要らないが、それは学びではなく綺麗て前向きな言葉に酔わされているだけだ。
馬を水飲み場に連れて行っても水を飲まない理由
「あなたを悩みの世界から救い出します」と言って高額なノウハウを売りつける先生がいます。
しかし、「悩みを解決する方法論」は供給過剰でなかなか目新しいものを打ち出すのは難しい。
そこで、先生は悩みの原因をあるところにすり替えて説明することでいかにも新しいメソッドのように加工して金儲けをたくらんでいるようです。
例えば、「好きなことをやろう。その方が自分を大事に出来て、幸せになれる」という教えがありますよね。
これは、過去に多くの人が発信してきた幸せになれるための方法論で、そのままだと手垢のついたような、ありふれた幸せ論でしょう。
なので、それを目新しいもに勘違いさせるために、先生はこのように加工をするのです。
「みんなが安心して生活出来るようにと長い年月をかけて作られたモラルや道徳観が、〇〇してはいけないという固定観念に繋がり悩みの原因になっています」と悩みの原因をモラルや道徳観に置き換えます。
なぜモラルや道徳観を悩みの原因に置き換えるのか?
それは誰もが持っている道徳観による行動の制限を悩みの原因にすることで今までにない悩みを消す方法だと思わせて集客したいからでしょう。
そして、この手の先生に傾倒しがちなのは中年女性が多いのです。
しかも、結婚して、子育てをして、自分の思うように行動が出来ない主婦の方は少なからず、自由になりたいけれど自由にできないストレスがあるでしょう。
そういった自由になりたいけれど、家族のためを思うと自由に出来ない主婦の心を過剰なまでに、ほぐして高揚させるのです。
例えばこのようなものがあります。
「結婚相手に遠慮してやりたいことをあきらめる。快楽に溺れてはいけないという道徳観という固定観念で自分を押し殺す。我慢はマイルドな自殺です。なのでもっとやりたいことを追求しよう」と言う先生の教え。
先生はそうしてカモの気持ちを高揚させて手のひらの上で踊らせたいのです。
また、先生はこのようなことを言うこともあります。
「人生は何度でもやり直すことが出来ると言うのに、結婚だけは始めてのチャレンジで成功させなければいけないという風潮がある。思い込みを捨て何度でも、はい次ーー、と思うほうが幸せなのですよ」と。
これに多くの悩み多き主婦が「先生ありがとう」と傾倒していくのですが、よく考えてみると少ないチャレンジで幸せになったほうが楽でしょう。
私たちは、子供のころから「人の気持ちの分かる人間になりなさい」と教えられて育ってきました。
先生は、そこを利用して、幸せ論を唱えているのです。
例えば、このような人の気持ちよりも自分の気持ちを大事にする論があります。
「欲しい気持ちは素直に口に出そう」
「それが自分の気持ちを大事にすることに繋がり幸せになれるのです」
そう先生は言うのですが、よく考えるとおかしなことです。
例えば、恋愛を例にして考えてみると、相手の気持ちを大事に考えず「あなたの心が欲しい」と言うと相手は困惑するでしょう。
それでもしつこく自分に身持ちに素直になり「あなたが欲しい」と付け回すようになるとストーカーとして相手も自分も傷付くでしょう。
もう一つ、仕事を例にして考えてみたいと思います。
欲しい気持ちを素直にぶつけたほうが幸せになれると言う先生の教えを例えば営業マンが実行したらどうなるでしょう?
「契約が欲しいので契約下さい」と。
もし、僕が客なら欲しがるだけで与えることを考えない営業には契約しないでしょう。
自分の気持ちが第一で顧客の得を考えない気持ちが透けて見えるからです。
自分勝手に生きるということは、モラルや道徳観から多くの人が二の足を踏むことです。
そういった当たり前の気持ちを前にして先生は、「それではだめです。自分勝手に生きるのは恐怖でしょうが、その先には幸せの海が広がっているのでバンジーしなさい」と説いているのです。
そして「どうせ、私は嫌われているから嫌われようとバンジーすると幸せの海にダイブ出来る」という先生の妄言を信じて居場所をなくす相談者が出てきます。
そうして居場所をなくした相談者に先生は「おめでとう、あなたがいるべきではなかった場所から解放され、新しい場所に出発出来るね」ときれい事を言うだけなのです。
新しい場所は相談者自身が探さなければいけないのです。
そうして、相手の気持ちよりも自分本位に生きるを追求した結果、周囲から距離を置かれることがあります。
そして「あの人に無視されている気がする」「あの人に馬鹿にされている気がする」と悩むようになります。
その悩みを先生にぶつけるとこのように答えられるのです。
「あの人に無視されている気がする」「あの人に馬鹿にされている気がする」は普段からあなたが自分に言い聞かせているところから来ますと。
これは、さもあなたが気付かない悩みの原因を私は知っているんだよと、先生は相談者にアピールしているのです。
こういった、モラルや道徳観を固定観念だと決めつけて、そのブロックを解除しようという幸福論はまともな人は眉をひそめるものです。
そこで、心ある人から批判の声があがります。
「みんなが安心して生活できるようにと長い年月の中で生まれたモラルや道徳観を踏みにじるな」と。
すると、先生はこう反論ですのです。
「あなたが救われないのは、あなたが救われる気がないからだ。のどの渇いた馬を水のみ場に連れて行っているのに飲まないことと同じだ」と。
つまり、先生は大衆と言う名の馬に、幸せになれる方法論と言う名の水を提供しているのに飲んでくれないと言っているのです。
しかし、馬が飲まないのは、それが泥水だからなのです。ヒヒーーーン。