ありがとう熊さん

食品スーパーのおやじが、生き方について辛いことも楽しいことも含めて、心を込めて書かせてもらいました。

「わしは身体障害者じゃ」と怒鳴り、障害者専用駐車スペースに停めようとした客に思うこと

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駐車場でどなるお客様

自分の何気ない行為がどれだけの人に迷惑をかけているのか?想像すること、知ることがとても大事だと思います。

勤め先の食品スーパーで、とてもいやな出来事がありました。 

週末のピーク時は第一駐車場は満車になり、第二駐車場も奥しかあいてない状態になります。ガードマンさん2人で誘導するのですが、一人の男性客が店舗入り口近くの、車椅子マークの障害者専用駐車スペースに停めようとしました。

ガードマンさんは、それを阻止しました。

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しかし・・・

男性客「わしは障害者じゃ」

ガードマン 「証明書の御呈示お願いします」

男性客 「そんなもんあらへんわ」

そして男性客はとっても大きな声で「わしゃー身体障害者じゃーこりゃー」と怒鳴りました。

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さらに男性は「ここの場所は証明書なんかなくっても障害者やったら停めれるんじゃ」と凄み、ガードマンさんは迫力負けして停めさせました。

男性客は車から降りてきてさらに、ガードマンさんを責めました。駐輪場と違う場所に停めている他のお客様の自転車を指差しながら「自転車も注意しろ!コラ!」と怒鳴ったのです。

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 忙しくて自転車まで手が回ってなかったことを責め立てたてたのです。他のお客様はちょっと離れた所から「何あの人?」という目でチラチラ見ていました。

その後、男性客は買い物をすませ、駐車場に戻ってきた時に、またガードマンさんに突っかかってきました。「オイ!ミスしたら謝るべきだろ?」と言ったのです。

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 ビールケース片手に軽い足取りでどう見ても健康そうな男性客は「自分は身体障害者なのに、停めるのを阻止したことはガードマンのミスだから謝るべきだ」と独自の理論を振りかざしてきました。

ガードマンさんも腹がたったのでしょう。投げやりな感じで「ハイハイすみませんでした」と返しました。

これに男性客はさらに怒り「何がハイハイじゃーミスしたら謝るのは当然だろ?お前もガードマンしとったら、道路交通法違反したやつは警察に謝らなあかんことぐらい知ってるだろ?それと同じじゃ」

捨て台詞を吐いて帰られました。私ともう一人のガードマンさんはちょっと離れた場所で様子をみていました。私たちが出ていくと話がさらに長引きそうだったからです。

男性客はとても健康そうに見えました。

身体障害者には見えませんでした。しかし、心が病んでるようには見えました。心に障害があるのでしょう。人に優しくできないというのは気の毒なものです。

私たちはとても残念な気持ちになりました。

この出来事以外にも、急いでいるから。混んでいるからという理由で障害者専用駐車スペースに駐車される健常者のお客様は後を絶ちません。

自分がどれだけ迷惑をかけているかを自覚していません。そこで今回は、ここに停めることがどれだけ迷惑な行為であるかをご紹介したいと思います。

あなたのために長い時間待たなければいけない人もいるのです。

車椅子を利用される方は車から降りるとき、車椅子の幅の分、車のドアを開けないといけません。そのために障害者専用駐車スペースは通常よりも広くスペースを確保しています。しかし店全体の駐車場のほんの1部分だけしかありません。

ちなみに私の勤めるスーパーは2箇所しかありません。そのスペースに健常者が停め、その後、車椅子のお客様が長い時間空くのを待つ。そのようなことがあります。

急いでいるからは理由になりません。

店の入り口の、出来るだけ近い場所に、障害者専用駐車スペースはあります。そのため、ガードマンに「急いでいるから停めさせて」と言われるお客様がおられます。

どんなに急いでいたとしてもここに停めるべきではありません。急いでいる人のために空けているのではありません。歩くのが困難な本当に必要としている方のためです。

誰も注意しない?でも白い目で見られています。

モラルに欠けた行為を直接注意される方もおられますが、その後のトラブルを考え、多くの方は注意したい気持ちをぐっとこらえています。

言葉ではなかなか注意出来ずに、目で訴える。そんな方も多いと聞きます。

では障害者専用駐車スペースに停めてもいい人とは?

駐車スペースのアスファルトに車椅子のマークが書かれているため、車椅子常用者専用と思われていることが多いのですが、車椅子の方以外にも対象となる方がいます。

良く見かける障害者専用駐車スペースの看板に、 車椅子、妊婦、杖をつく人のマークがあります。つまり、何らかの理由で歩行が困難な方は使用が出来ます。

最後にお願いです。

私が勤めるスーパーでは週末やセールの日以外は車の誘導をするガードマンはいません。限られた人員の中、障害者専用駐車スペースを必要な方のために見張っておくのも現実問題出来ません。

急いでいるから。混んでいるから。そのような理由で健常者が駐車する。しかし、道路規制法で規制されているものではなく店側が独自で確保している駐車スペースです。

車椅子の方など、歩行困難な方にも買い物を含む社会生活を快適にして頂くために必要なスペースです。

困っている人がいる現状を知っていただきたいと思います。 そして、規制されているから停めないでおこうではなく、困っている人がいるから停めないでおこうという気持ちが大事です。

みんながそういう気持ちになり、全ての人が気持ち良く買い物を楽しめる。そんな世の中になってほしいです。

「弁償しろ」放置されていた買い物カートが車にぶつかってキズついた(涙)さぁどうする?

駐車場での悲劇

スーパーの駐車場に車をとめて、買い物に行きました。買い物が終わり車に戻ると、車に買い物カートがぶつかっていました。

見るとぶつかったところにはキズが付いていました。このようなことは割とよくあることで、食品スーパーで勤める私たちの頭を悩ましています。

もちろん、被害に遭われた方の方が腹が立って仕方がないことでしょう。買ったばかりの大事な新車にキズがつく。悲劇ともいえる出来事です。

この怒りは誰にぶつけたらいいのか?

買い物カートを放置した犯人?
そこの駐車場を管理している店?
それとも泣き寝入り?

犯人は誰かは分からない。自分が買い物に行っている間の出来事なのだから。しかし、泣き寝入りをしたくない気持ちも生まれます。

ことらは何の落ち度もありません。ただ買い物をしていただけなのですから。では誰にこのことを言ったらいいのか?真っ先に思い浮かぶのがその駐車場を管理しているお店でしょう。

今回はそう言った不満をぶつけられる私たち店員の立場から思うことを記事にしたいと思います。

モラルについて

私たちは子供のころから、「自分が使ったものは元の場所に戻しなさい」と教えられてきました。

その理由は次の人に迷惑をかけないためです。そして安全な社会を作る上で欠かせないマナーの一つです。

駐車場でのお客様の買い物カートの放置は、どう捉えるべきなのか?
勤め先の食品スーパーで先日、駐車場でお客様の車に、他のお客様が放置していたであろう買い物カートがぶつかっていました。

お客様に修理代を求められましたが応じませんでした。なぜなら、責任は買い物カートを放置された人にあるからです。

それでも、買い物カートは店の所有物なのに、それが車にぶつかるのは店の管理不足ではないのか?お客様はそう言って、なかなか御納得されませんでした。

このケースでは、店側は気の毒と思いつつも修理代が出せません。苦しい気持ちになっています。まずはその苦しい気持ちを御紹介します。

もしも自分の車がこんなことになったら?そう思うと悲しくなります。 

普通に買い物に来ただけなのに、何の落ち度もないのに、買い物カートを置き場に戻さずに放置するマナーの悪い人のせいで、こんな目に合う。自分がこんな目にあったらと考えると他人事でなくなります。  その時、見ていたらと思うと申し訳ない気持ちにもなります。

店に修理する責任がないとはいえ、店側はこの様なことがおきないように、頻繁に駐車場に買い物カートが放置されていないか巡回をしています。

しかし、不特定多数のお客様が来店される中で、ふと目を離したすきに、このような事故が起きることもあります。

限られた人員の中、100%防ぐのは難しいとはいえ、あの時見ていればと思うと、後悔します。

お客様の御納得にとても時間がかかることがあります。 

すぐに御理解される方も多いのですが、店の管理責任を問われ、なかなか御理解されない方も多いです。

どんなに時間をかけられても店側が修理代を出すことは出来ないのです。お客様の貴重な時間を奪うことにもなるので、気の毒に感じます。

真実は分からない。 

他のお客様が買い物カートを放置したのが原因と思うのですが、はたして本当にそうなのでしょうか?目撃者がいない。誰かのいたずらであることも考えられます。

原因が特定できない事故に、店側がほんの少しでもと修理代を出す。そのようなことになると、今後それを悪用する人が出てくるかもしれません。自分で買い物カートを車にぶつけて言いがかりをつけてくることも考えられます。

店が責任を負えない理由

店が責任を負えるのは従業員が買い物カートを動かしていて車にぶつかった場合です。買い物カートを危ない場所に放置するマナーの悪いお客様の行動までは責任を負いかねます。

もし、不特定多数のお客様のカートでの事故すべて、店側に賠償責任が発生するとなれば、どうなるのでしょうか?

日本全国のスーパーは買い物カートの貸し出しそのものを見直さなければいけません。
最後にお願いです。

ほとんどのお客様は使用後の買い物カートを置き場に戻されます。しかし、急いでいる、混んでいるからと駐車場の危ない場所に放置される方が少なからずおられます。

店側はこのような事故をおこさないためにも巡回をしています。しかし回収が追いつかずに事故につながることがあります。

このような事故を見るたびに、もしも自分がこんな目に遭ったら?と思うと辛い気持ちになります。

急いでいる気持ちは分かるのですが、だからと言って買い物カートを元に戻さない行為は他人に多大な迷惑をかけることになります。

どうか御使用後の買い物カートは置き場に戻して下さい。それが私たち店員のお願いです。

宗教依存をやめさせるには説得よりも興味が効く

我慢できない家族の宗教活動

宗教団体に、より多くのお金をつぎ込まなければと精神的な不安を感じ、お金の使い道の優先順位の一位が宗教団体になってしまう。その結果、金銭的な余裕がなくなる。

人々を正しい道に導かなければと思い込み、勧誘を熱心に行い周囲から煙たがられる。
家族との交流よりも宗教活動を優先させ、人生の貴重な時間を無駄にする。

宗教を信じる自由があるとはいえ、家族が宗教に洗脳され、社会的な孤立、経済的な困窮に陥っていく姿を見ると、何としても助け出してあげたいと思うのは当然のことです。

家族を宗教から抜け出させるのは難しい

外から冷静な目で見ればすぐにわかる宗教の矛盾点。しかし、信じたいという気持ちがその矛盾点すら脳内で都合の良い解釈に変えてしまう。

お金と時間をつぎ込めばつぎ込むほど、人はそのしてきたことの大きさから、自分のしてきたことに対して正当化しようと強く思う。

家族や友人との交流よりも信者同士との交流の方が温かく居心地の良いものに感じられ、人生の生きがいになってしまう。

宗教を信じ切っている人を説得して脱会させるのは大変難しい問題です。どのように説得をしても、それに対する反論を用意していることも多く話は平行線になりがちです、

今回はそんな難しい問題をある方法で解決した私の母についてお話したいと思います。

強く信じ切っていた私

20代のころ、ある宗教にのめり込みました。初めての出会いから「神様に導かれてこの宗教に入った。もっともっと人々にこの世界最高の教えを広めるべきだ」と思っていました。

働いて稼いだお金を、ほとんど教団にお布施をすることが生きがいとなり、プライベートな時間もほとんど教団での活動をする状態で人格そのものが変わりました。

どうして、みんなは本当の宗教とは何かを知ろうとしないのか?

周りにも必死で話だけでも聞いてもらいたいと働きかけました。私の信じる宗教こそが本物だ。なんでみんな最初から疑うんだ?そんな私を周りは冷ややかな目で見るようになり、それまでの人間関係も悪くなりました。

もっともっと神様に認めてもらいたい。

教団の若者だけで集まる青年団に入りました。同じ考えを持つ若者たちは皆、目がきらきらしていて希望に満ち溢れていました。

「この中に入れたということは選ばれた人間なんだ。さらに気を引き締めて頑張り、神様に認めてもらうんだ」と思っていました。

教祖を遠目で見た時、雷に打たれたかのような感動がありました。

教団の本部でのイベントにも参加しました。イベントに参加するのはみんな熱心な信者たちばかりです。熱狂的な興奮の渦の中、教祖を遠目で見ることが出来ました。心の中から教祖に自分の全てを捧げたい。強く思いました。

母親を入信させることが一番の親孝行であると思いこみました。

母親に自分の宗教がどんなに素晴らしく、今までの宗教が形骸化している中で、本物とは何かを熱く語りました。母は全然信じてくれませんでした。

それでもあきらめずに「一度だけでも教団を見てほしい」とお願いし、母を教団に連れていくことが出来ました。

教団に母と入ると、他の信者の方や幹部の方が寄ってきて大変な歓迎ぶりでした。「息子さんを通じて神様があなたを導いてくれたのです」と言って幹部の方はいかに教団が

今までの宗教と違うかを母に話しこみました。

母は何も反論せずに黙って幹部の方や他の信者の方の奇跡体験などを聞きました。その後、母は来てほしいところがあると言い、私をあるところに連れて行きました。

そこは聞いたこともない名前の宗教団体でした。

中に入り、驚きました。自分が信じている教団と似ているのです。見た目も同じなら教えもそっくりです。訳を聞くと私が信じている教団と分裂した教団だと言うことが分かりました。

そこの教団の幹部の方が話をしてくれました。「今あなたが信じているA教団は私たちのB教団から分裂した教団です」私はこの言葉に大変怒りを覚えました。

何を証拠にそんなことを言うんだ。

そっちが真似をしてるだけじゃないのか?そっちがその気ならとことん話して論破してやろう。メラメラと闘志がわいてきました。

B教団の信者は私に、入信すると、こんな奇跡が起き、あんな奇跡が起きると話をしてきました。奇跡といっても空を飛ぶとかではなく、病気が治ったり、仕事が上手くいったり、その程度のものです。

私は、「心の持ち方が奇跡を起こしてるのであって神様が奇跡を起こしてる訳じゃない。しかも邪教といわれる宗教には悪霊がわざと信じ込ませるために奇跡を起こす時がある」と反論しました。

しかしB教団の信者さん達は、A教団こそ邪教で、A教団の奇跡なんてものは悪霊の仕業であると私と同じようなことを言いだしました。

私はこの信者さん達に救いようのないものを感じました。

本当の宗教であるA教団には魂のレベルで爽やかな明るいものを感じる。しかしB教団にはそれがないと言いました。しかしB教団の信者さん達も火がついたのか?必死で私を説得しようとしました。

その内の一人で印象に残ってるのはA教団からB教団に乗り換えた信者さんです。彼女は「家族をA教団に殺されかけた」と言いました。

A教団には西洋医学の薬は神様が与えてくれる病気を無理やり抑えつける毒であるという教えがあります。その教えにとらわれ家族が薬を飲むのをためらい、あと少しで命を落としかねない状態になったそうです。

これに対しても私は反論しました。

「A教団には、確かに薬は毒であるという教えがあります。しかし医者が処方する薬は一時的に苦しみを和らげるために飲む方がいいという教えもあります。そのことを知ってるのか?」と言いました。

しかし、彼女はA教団から移動してきた人は他にもいてる。その全員が移動して良かったと言っていると反論しました。これに対しても私は腹が立ちました。

何十万人という信者の中でほんの少し、そういう人もいるだろう。しかしほんの少しの人だけの意見であり、もっと広くA教団を見てないんじゃないか?

もうこれ以上議論しても、この信者さんたちを納得させられない。

邪教に陥った人達を救うのは難しい。そう判断した私は母とともにB教団を出ました。
A教団を信じたい。しかし真実は何なのか知りたい。

私の心の中では周りが何を言おうとA教団を信じるという気持ちがありました。魂のレベルで信じてるのだから揺るぎないものであると考えていました。

しかし、B教団に行った時のことが頭から忘れることが出来ずに心の葛藤が生まれました。

A教団でこのことを話したら「えらい!邪教に惑わされなかったんですね!そんな邪教に惑わされたら駄目ですよ」と言われました。

しかし、そういう人たちに「B教団ってどういう教団か?」と聞いても詳しく答える人はいませんでした。

そのうち心の葛藤は日増しに強くなり、それとともにA教団に出向く回数は減りました。A教団を信じたい。疑うことはしたくない。

しかし、真実を知りたい。そう思いA教団とB教団のことを調べると、元々は同じ教団であったが分裂をし、なんとそれ以外にも複雑に分裂をしていることが分かりました。

私はさらにA教団から足が遠のき、とうとう行くことをやめました。その後、母親は一切このことに触れてきませんでした。

説得よりも興味

母は、周りを見ることの大切さ、自分の頭で考えることの大切さを教えてくれました。
A教団を信じることが全てであり、生きがいを感じてた私は教団の勉強会にも出来る限り参加をし、教団を批判するどんな質問にも答えられる準備をしていました。

もし、母が答えを押しつけるように教団を批判しても私は必死で言い返したと思います。それを母は気付いていたのか?私に教団に対する疑問が生まれるようにしたのです。

宗教を信じるのは自由ですが家族が社会生活に支障をきたしているのを見ると心配になります。

しかし信じ切ってる人に、どんな説得をしても説得そのものが悪の言葉に聞こえてしまうでしょう。

そんな難しい問題に私の経験が、一つのヒントとなればと思います。