ありがとう熊さん

食品スーパーのおやじが、生き方について辛いことも楽しいことも含めて、心を込めて書かせてもらいました。

「子供は叩かれるために生まれてきた」の先生

「学校なんていかなくて良い」と言う先生.

先生は事あるごとに「中卒でも成功者になっているじゃないか?」とどや顔で言っている。

しかし「でも」がつく時点で珍しいケースだと言っているようなものだ。

それは先生も分かっているだろう。

珍しくもなんともなければ「でも」という言葉は出てこないものだ。

彼氏が私を殴ります。

「彼氏が私を殴ります。助けてください」と女性が相談してきたら「殴り返しなさい」と言う先生。

「彼女をなぐって傷つけました。助けてください」と男性が相談してきたら「彼女はあなたに殴られるために生まれてきたから大丈夫」と言う先生。

彼氏と彼女のどちらが客かによってアドバイスを変える姑息な先生だ。

子供を叩いて後悔している母親に「子供は叩かれるために生まれてきたので大丈夫」と言った先生。

その先生の発信に「頭がおかしい」と世間が騒ぎだした。

すると、先生はこう反論している。

「子供を叩いてはいけないという対処療法では何があってもダメと逃げ道がふさがれるし、叩いてもOK と言うことで救われるママがいる」と。

さらに、先生はここから怒涛の如く反論を繰り返していく。

「子供は叩かれるために生まれてきた」の先生

「世間からみるとひどいことだがホントを知ると解決する方法なんだけど分からない人には何を言っても通じないんだね」

と先生は反論しているが何を言っても通じないのは先生の方だ。

「子供は叩かれるために生まれてきた」の先生

「この発言で炎上したことがキッカケで私の発信を、またひどいことを言っていないかと監視をすることで、はっと気づき心が救われる人が出てくるから炎上もいいキッカケです」

と先生は強がっています。

「子供は叩かれるために生まれてきた」の先生

「炎上をきっかけに、『ひどいことを言うな』と怒っている人も、そこに気づきを得て救われた人も、目的の最後は人を救うことだからそれでいい」

と先生は強がっています。

「子供は叩かれるために生まれてきた」の先生

「今は分からなくてもだんだんとホントが見えてくる。炎上がキッカケで私に興味をもち新しい事実に気づき救われたらそれでいい」

と先生は言うがだんだんと見えてくるのは矛盾点だ。

「子供は叩かれるために生まれてきた」の先生

「先生の教えは何も知らない一般人には誤解されやすい」と擁護する信者がいる。

先生が何を言っても、何かためになることを言っていると勘違いしているカモ信者だ。

「子供は叩かれるために生まれてきた」の先生

「記事の一部分を切り取って世間が騒いでいるだけ」と先生は強がっているが、記事の全体図は、ついつい子供を叩いてしまう母親の悩みへの回答である。

「子供は叩かれるために生まれてきた」の先生

先生は謝ればいいのに、必死で火消しに躍起になっている。「世の中の悪意が私に飛んで来ている。被害者の方が立場が強いと思い込んでいる人が被害者面して騒ぎたくて騒いでいるだけだ」と強がる姿勢が滑稽で失笑を買っている。

先生が気の毒なのは、奇をてらった発信で人気を博し、取り巻きに教祖として祭り上げられ、間違いを謝ることに恐怖心をもっていることだ。

間違いを認めると取り巻き連中が去って行くのではないかとね。あれだけ「恐怖心を捨てよう」と言っているのに頭を下げるのが怖いのだ。

「子供は叩かれるために生まれてきた」の先生

子供虐待を助長する記事を書いて炎上した先生の信者は「既に自分を責めまくってる人に対して、あえて反対のことを伝えて前提をなくして、まず現状を受け入れる方が、結果前に進めるって分かってての助言だ」と擁護しているが、結果的に前に進むのは児童虐待だ。

これだけ炎上しても先生は「子供は叩かれるために生まれてきた」の説を訂正しない。それどころかこんなとんでもない理論でマウントをとっている。

「僕らは天動説(思い込み)の時代に地動説(事実)を言っているようなものだ。反対されるのは当たり前で、隠れキリシタンのように隠れてやればいいしウソもつけばいい」と。これは信者の心の引き締めを図っているのだろう。

子供は叩かれるために生まれてきた」の先生

先生は反対する人をこう分析している。

「私の考えを否定する人は『これを逆手にとって暴力をふるう親が増える可能性がある』と人間の強さを信用できない人だ」と。

逆手にとるのではなく素直にとって暴力を助長させてしまう可能性があるのにね。

子供を叩いて自己嫌悪に陥っている母親を救うために「叩いてもいい」とアドバイスをしたと言っている先生。

「叩いては駄目」の世間の声は言葉の暴力だと言い出した。アルコール依存の人に 「お酒をやめないと死ぬよ」 は言葉の暴力であり、それと同じく叩かなければ気が済まない人に対して「叩くな」も言葉の暴力だという理屈だ。

「子供は叩かれるために生まれてきた」の先生

「子どもは痛がってます」「詭弁を言うな!」「親の気持ちをその場限り楽にするだけ」「叩くのは、勝手な親の都合」の世間の声に先生はこう反論している。

「あなたに何が分かるのですか?子どもの強さを舐めるな」と。

さらに「子供叩いて悩んでるママさんに『叩いていいよ』と言っただけなのに、怒っている人がいる。でもママからメッセージきたよ」と驚きのメッセージを紹介している。

「娘もありがとうと言ってぐれたし、先生のセミナーに行きたくなった」というメッセージだ。

先生は「これにて炎上終わり」と自分で炎上終了宣言をされていた。

ちなみに「ママさんのメッセージはでっち上げたな」というツッコミは今のところ来ていないようだ。

「子供は叩かれるために生まれてきた」の先生

信者からの質問を紹介している。

「友達叩いて怪我させた子にも叩いたらダメと言ってはいけないのですか?」

この質問に先生はこう答えている。

「あのね、いままで何度も『ダメ』と言ったよね?でも変わらなかったよね?じゃあ『ダメ』は通用しないよね?そこを理解してね子供を信じてあげてね」と。

「子供は叩かれるために生まれてきた」の先生

先生はさらに強気の反論をしてきた。

「わざわざあの世から叩く親を選んて生まれてきた子供を叩くのは仕方がないことでそうして叩いてしまう自分を許さないと叩くことをやめられません」だって。

文章を複雑化させて、はぐらかしているね。

「子供は叩かれるために生まれてきた」の先生

「それは極端な考えだ」という声に先生は

「叩いたらダメと言うのも極端な考えだ。叩いてもいいし叩かなくてもいいし、こうであるべきだと凝り固まるから心に痛みがでる。なので私は極端な発信をしている」と言っている。

どうやら先生は自分の教えが世間の調和に役立っていると思い込んでいるようだ。

 

学んだ心理学を手放すと楽になったという先生は矛盾だらけです。

「心理学を学んだのは、自分を大きく見せる為でそれなりの効果はあった。しかし、ある時それは小手先のテクニックにすぎないことに気づき、学んだことを手放すと楽になった」と先生は自慢げに言っている。

これは、今までの世の中にある心理学は小手先であると思わせる小手先の論法だ。

「心理のテクニックを学び、使うことで多くの人に愛された。しかし愛されているのはテクニックがあるからで自分が愛されているわけではないと気づきテクニックを捨てた。すると多くの人が離れたけど多くの人に支持された」と先生が言う。

これは、小手先のテクニックを使っているけれど使っていないと勘違いさせる論法だ。

例えば先生はこのような小手先の発信をしている。

「宇宙の流れは魂の思索の時期に突入しています。あなたの中にある不安や悩みがちょっとしたことで大きくなるかもしれません。これは宇宙があなたに考えて答えを見つけてもらい魂を成長さするために用意した時期です」と。

このように先生が言う理由は、心の中に不安や悩みを抱えている人だけを見込み客にしたいからだ。

心の中に不安や悩みがない人はスルーしてくださいと言うことだ。なんという小手先だ。

小手先はまだまだつづく。次はクレームに対してはぐらかす小手先の技だ。

「人に迷惑をかけてバンジーしよう。金は使ってもなくならない」という先生のアドバイスを受け入れられない人は多くいる。

そこで先生は「怖くてやらないの恐怖感がチャンスを棒にふる」と説いている。

つまり、自分の教えを受け入れられないのなら、それは、あなたが悪いんだよという具合にもっていきたいのだ。

しかし、先生の教えが受け入れられない理由は別にある。

「良いのは分かるけれど怖い」のではなく、「良いことはなにもない」から受け入れられないだけだ。

先生は、宇宙がこう言っていると言えばカモは信じてくれると思っている。

「宇宙からメッセージが下りてきました」と宇宙セミナーの先生はせっせとブログを毎日更新している。

しかし、宇宙が善良な人にだけメッセージを下ろして悪人をまともな道に導かないというのはおかしなことだ。

そう考えると先生の自分にはメッセージを受け取れるというのは都合の良い嘘だと分かるものだ。

「あれしてはダメ、これしてはダメと選択肢が少ないより、バカでもいいし、太ってもいいし、病気になってもいいし、不倫してもいいし、なんなら死んでもいいし、選択肢が多いほど気持ちは楽になる」と先生はとんでもない理論を展開しだした。

こうして先生が指し示す道は先生への盲信一択であります。

「あなたは本来は天高く飛び上がれるのに自分で自分に重りをつけています。子供に寂しい思いをさせたくないという重りで不倫しない。そんな重りなどさっさと捨て去りましょう」と先生は言っている。

そんな屁理屈に惑わされてはいけない。

先生がおっしゃるその重りはあなたを優しく守る重りかも知れないよ。ええっ。

先生はとにかく奇をてらった発信が好きであり、質問に対する答えもオリジナリティーを出そうと必死になっている。

例えば「家事をしない嫁を殴って泣かせて後悔しています。心が苦しいです」と言うカモからの相談。

これに「嫁はあなたに殴られるために生まれてきた。前世で出来なかったことを今世で出来るために」と先生は答えているのだ。

とんでもないことだよね。奥さんがかわいそうだよね。

「嫁は旦那に殴られるために生まれてきた」というとんでもない考えの先生。いい加減にこんな先生の言うことは聞かないでもらいたい。

では、どうして、普通の人が顔をしかめたくなるようなことを先生は言うのか?

それは、相談者が嫁ではなくカモの旦那だからだ。カモは「自分は許されている」と喜び先生に盲信して行くのだ。

「あなたがいつまでも苦労をしているのは人から『頑張っているね』と認められ邪険にされないように予防線をはっているわけで、予防線を乗り越えバンジーしないと幸せの扉はバッカーンしません」と言う先生の言葉を信じてバンジーすることは命綱を絶ちきる行為である。危険です。安易に信じないでください。

そんなバカな話があるかと思うような発信を好む先生。

より多くの信者を獲得するために信者の体験談をせっせと発信している。

信者が幸せの扉をバッカーンさせた例を紹介した後に「誰の言葉を信じるか、誰の言葉をスルーするかで人生の扉は変わります」とどや顔する先生。

そんな強気の姿勢を見ると、もしかして先生の言っていることはすごいことかもと思いがちだが、先生が紹介する信者の声だけではなく、先生とは別の世界から声をあげている元信者の声にも耳を傾けてもらいたい。

先生に踊らされて不幸の扉をバッカーンさせた多くの人の声。

先生は自分にとって都合の悪い声はスルーしているのだ。

言葉巧みに混乱させて信者を獲得しようとしている分、その教えには多くの矛盾点が見えてくる。

例えば「もっとこうありたい。もっとほしい。もっともっとの気持ちがあなたを苦しめている」と先生は言っている。

しかし、先生の精力的な活動と批判の声に過敏に反応する姿はまさに、もっともっと信者がほしいのお姿だ。大いなる矛盾だ。

「嫌なことは我慢しない方がいい。人に迷惑をかけた方がいい」と先生が言うのは、カモは後で辛い思いをすることなど考えずに今が楽なほうを選ぶことを知っているからだ。

「お金は使っても減らない」と言っておきながらクレームが入ると「使ってなくなるのは当たり前だろ?」と反論している先生。

「使ったらなくなるのは当たり前だろ」と言う前に「使ってもなくならない」と言ったことに矛盾していることに言及すべきだ。

しかし、先生は間違いを認めたくなく、そこからは逃げているのだ。

カモ客はさらなる刺激を求めて先生に会いに行く

世の中は、やらかす人とやらかさない人に分かれていて、やらかさない人は理解出来ないから私の教えを批判していると先生は言っている。

しかし、世の中の人を都合よく白と黒に分けられるものではない。一番多い層は白と黒が混ざったグレーゾーンだ。

先生はなぜ、世の中の人を独自の考えでタイプ分けをしたがるのか?

他の教えと差別化をしたいのだろう。

また、先生は他の教えと差別化を図るため、このような奇をてらった発信を好んでしている。

「『そんなことばかりしてたら苦労するよ』と言われて育つと苦労するよ。なぜなら、『苦労するよ』という大人からの脅しに屈して、苦労すると思い込まされているからね」と。

そんな先生の脅しに屈しないでもらいたい。当然、そのような発信に気分を悪くする人もいる。そんな人に対して先生はこう言い放つのだ。

「人の気持ちを考えて自分を大切にしないのは心がよじれているからで、姿勢を正すのは痛みをともなうが楽になれるのと同じで心のよじれも矯正には痛みをともなうんだよ」と。

批判の声を痛みを訴える声にしてしまうのだ。なんという強引な手口だ。

とにかく先生は、自分の世界にカモ客を引きずりこみたいのだ。

「心の世界には素敵な魔法があります。感情さんがいやだと思った時は神様が、あなたが古いものから離れて新しいエネルギーを受け取れるかを見ているのです。新しいステージに行く前は感情さんに従うのが一番です。そんなあなたを私はサポートします」といってサポート代を稼ぐ宇宙女子にご注意下さい。

「人はいつ死ぬか分からないから、持っているお金はドンドン使い、先に美味しい思いをしよう」と先生は言うが、いつ死ぬか分からないと言うことは長生きするリスクもあるだろう。

「私は大丈夫を腑に落とすには大丈夫じゃない部分をさらして体験しないといけない」と言う先生の教えを真に受けて大丈夫ではない恥ずべき行動をして批判されても先生は助けてはくれない。

先生がいう大丈夫とは、それでも生きているじゃないかという大丈夫だからだ。

「大丈夫じゃないの思い込みを捨て去り大丈夫を腑に落とすと幸せになる」と先生はいうが、川でキャンプしているグループが三度も警察から増水するから避難しろと言われているのに「大丈夫」と返してその後、増水して流されて死亡した事故は、大丈夫じゃないを捨て去り大丈夫を腑に落とした結果だ。

「なせ、やりたいことを我慢する?太るのが嫌だから食べないのか?長生きしたいから?お金がもったいないから安いものですますのか?美味しいものをいつ味わうんだ。今しかないだろう」と先生はどや顔で言うが、美味しいものは適度に味わえばいいもので先生の言葉に踊らされると暴飲暴食につながるだろう。

「やりたいことを我慢するといいことがあるのか?苦労すると報われると思っているのか?一体あなたは何のために生きているのだ」と先生は言うが私たちは目先の小さなやりたいことと将来の大きなやりたいことを天秤にかけて選んで行動しているのだ。

「学生時代にしっかり勉強していたら社会にでたときに楽になると親に言われた子は嫌な思いを先にすると後で楽になるという日本の社会にはびこる呪いにかけられていますといって別の呪いをかける先生。

「人に迷惑をかけるということは人を頼り、人に対して感謝の気持ちを持つことが出来る。それに対して迷惑をかけてはいけないという人は感謝の気持ちを持つことが出来ない傲慢な人だ」と先生は言うが、出来る限り迷惑をかけないようにしている人が感謝の気持ちを持っていないと決めつける先生の方が傲慢だ。

「好きなことが分かりません」と言うカモの質問に「今あなたがしていることが好きなことだよ。何故ならばあなたの魂がそう望んで選んだ結果だからだよ🎵」という先生は魂がすべて望ましい道を選ぶという固定観念を植え付けようとしている。

「みんなが私のために我慢している。どうしたらいいの?」というカモに「自分を迷惑な人だと決めつけているんだね。でもみんなが許しているから、あなたは迷惑ではないんだよ」と甘い言葉で自分になびかせようとする先生。

そんな言葉を信じると、よい方向に変わるあなたに期待している人をガッカリさせてしまうだろう。

「自分には生きている価値はないと思うことで楽に生きることが出来ます🎵」と言う禅問答のような発信を先生が好んでする理由は、カモは日常のささいな幸せよりも刺激を求めているから刺激的な奇をてらった言葉で集客しているのだ。

そしてカモはさらなる強い刺激を求めて先生に会いに行きたくなるのだ。