ありがとう熊さん

食品スーパーのおやじが、生き方について辛いことも楽しいことも含めて、心を込めて書かせてもらいました。

定期的に新品にしてくれたら壊れないのにな。

f:id:robakuma:20170807231747p:plain

 

 

こんにちは、食品スーパーに勤めています。 

 

うちの店の冷蔵のショーケースが壊れた。

 

設定した温度まで冷えない。

 

そのことを本部の上司に相談した。

 

すると、あれを試したか?

これを試したか?

じゃあ、それで様子をしばらく見ようか?

そんなやり取りが何度も続いた。

 

しかし、いろいろやってみたがどうにもならなかった。

 

そこで本部の上司は重い腰をやっとあげて、業者を呼んでくれた。

 

問題のショーケースは、牛乳・豆腐・麺などの欠かすことのできない商品を並べているところだ。

 

問題のない別のショーケースに移動させても、大量の在庫が出る。

 

うちの店だけの人員では解決の出来ない問題。

 

近隣の店舗から応援が駆け付けた。

 

もちろん、私が電話で何度もやり取りをした上司も来てくれた。

 

そこで上司は私に苦しい胸の内を話してくれた。

 

「あ~~~ぁ、またお金がかかるよ」と。

 

さらに、上司は・・・

 

「実は僕も、上司から『現場のいうことをなんでもはいそうですかと聞いたらきりがないよ』と言われているんですよ」と言った。

 

つまり、この上司は、さらに上の上司からプレッシャーをかけられているのだ。


修繕費を出来るだけ抑えろと。

 

必要な修繕は仕方がないが、本当にそれが必要なのか?と言うこと。

 

現場が安易にSOSを出しているだけで、大した問題じゃないこともある。

 

水が出ない。そんな現場のSOSに業者を行かせると、元栓が閉められていただけ。

 

その元栓をきゅっと回す。そんな数秒で終わることでも業者を呼ぶと1万円を取られる。

 

だから、本当にそれは業者を呼ぶ必要があるのかを見極めるのにあれこれと時間がかかるのだ。

 

現場のSOSから、実際の手配に至るまで、いろいろと面倒なことをさせられる。

 

現場からのSOSのほとんどが設備の故障だ。

 

そもそも定期的な設備の入れ替えがあれば、あちこちの店舗からSOSはほとんどなくなるだろう。

 

しかし、うちの会社だけでなく多くの会社でこの設備の老朽化に頭を抱えているところは多いと思う。

 

現場の人間は「いい加減に全部新しいものに取り替えてくれ」と思っている。

「どちらが正しいか?」より「どちらが楽しいか?」を基準に行動したほうがいいの違和感

みなさん、こんばんは

今日、朝のニュースを見ていて「おおっ~~」と思ったことがある。

僕の青春時代のアイドル菊池桃子さんがストーカー被害に遭ったそうだ。

50過ぎの元タクシー運転手が逮捕されていく様子がはっきりと画面に映っていた。

「へぇ~~、ストーカーってこんな風にテレビではっきりと顔が分かるように報道されることもあるんだな~」って思った。

 


【ストーカー被害】菊池桃子情報が漏れた理由とは!?

それで、僕はふとこんなことを思い浮かべた。

最近ネットで発信している一部のカウンセラーのこと。

そういった一部の人たちの文章で「何か物事を判断する時は、どっちが正しいかどうかで判断するのではなく、どっちが楽しいかで判断したほうが上手く行く」という教えをかなりの頻度で目にすることが多くなってきた。

どうやら「正しいことを基準にするのではなく楽しいことを基準に行動した方がうまくいく」という教えが自己啓発界隈で流行っているようだ。

これ、実は僕もなんとなく「そうだな」っと思っていることだ。

今日一日をどう過ごすべきか?ということで悩んだとしますよね。

そこで、「どの過ごし方が正しいのか?」と考えるよりも

「どの過ごし方が楽しいか?」と考えて行動したほうが同じ一日でも後者の方が満足度は高いと思う。

人生で何かを始める時に、何かしらの2択や3択で悩んだ時は、どちらが正しいかよりもどちらが楽しいか?で選んだ方が自分の選択に納得がいく気がする。

なので、「どちらが楽しいかを基準に考える」という教えは分かると言えば分かるんだけど、その教えを自分に向けられた批判の論点をはぐらかす手段として使っている先生を見つけた。

先生は、供給過剰ともいえる自己啓発の業界で目立とうとするあまり、奇をてらった言葉や、きれいで前向きな言葉をいくつも重ね合わせてとてもきわどい発信をしている。

「人に迷惑をかけた方が人生は上手く行く」

「お金は使ってもなくならない。水や空気と同じです。空気は吸ってもなくならないですよね」とね。

常識を覆すという感じの発信は人々の興味を引くことが出来る。

さらに、人は無意識のうちに自分に都合の良い方を選択する。

お金は使ったらなくなる」と言うのは当たり前のことで「お金は使ってもなくならない」は普通に考えておかしいこと。

なのに、そのおかしなことを信じて顧客になってしまう人がいるのだ。

どうして、このような珍理論に騙される人が多いのか?

それは、先生はどんな詭弁や珍理論でも話の勢いで納得させてしまうからだ。

ガマの油売りに医学的な根拠を求めても無駄だということ。

しかし、不特定多数に向けられた、ツッコミどころのある発信に一言モノ申したくなるのが人情だ。

当然のように、いろんなところから批判が入ってくる。

すると、先生はこのように反論していたのだ。

「正しいか間違っているかを基準に考えるとどちらが正しいかで話はこじれるが、楽しいか楽しくないかを基準に考えると一瞬で人を笑顔にする」と。

このように論点を替えてスルリと批判をかわしていた。

つまり、一言モノ申したい人に「それは間違っているよ」と言わせないための詭弁だ。

というわけで、最初に書いた菊池桃子さんにストーカーをした男性の話に戻る。

彼は、ストーカー行為が社会的に正しくないことを知っていたはずだ。多分。

しかし、ストーカー行為をすることを選択してしまった。

自分が正しいと思っていることよりも自分がやりたいことを優先してしまったのだ。

そうして、全国のテレビに自分の姿が放映され、人生に大きな汚点が着いてしまったのではないか?

彼のこれからの人生で大きなマイナスになったのではないだろうか?

「こんなはずではなかった」と思っているかもしれない。

なので、今日僕が言いたいことをまとめると・・・

「正しいかどうかを基準に物事を判断するのではなく、どちらが楽しいかを判断の基準にした方がいい」という教えは、前提条件として社会人としての常識や礼儀がないと、ただの無神経な行動になり、結局は嫌われて損な立場に陥ってしまうということだ。

なぁ、自分って何年やってるの?

f:id:robakuma:20170813201405p:plain

 

あの頃は、楽しかったけれど、競争、競争でしんどかったな。

 

「なぁ、自分ってこの仕事何年やってるの?」

って聞いたり、聞かれたり 

みんな、目の前の奴がどれだけ経験年数あるのか?気にしていた職人の仕事。

 

相手の経験年数を聞き、そこで相手が5年やっていたとしよう。

 

そこで、相手の仕事ぶりを見て・・・

「へぇ~~5年でこの程度なのか~」と妙に安心したり、

「えっ、5年でここまで上手いのか?」と驚いたり、嫉妬したり、

 

自分の経験年数と照らし合わせて、はたして、自分はこの位置でいいのか?と確認するのだ。

 

そこで
嫉妬したり、

同類だと思ったり

優越感に浸ったり


と忙しいかったな。

 

で、僕はどうかっていうと要領悪くって、ある一定のレベルまでは行けたんだけど、そこから先のレベルに全然いけなくてね

 

そうなるとモチベーションも下がりまくり、なんだか置いてけぼりにされた気持ちになった。

 

あ~~、こんなんじゃもうここにいてても仕方がないよなって思って

 

辞めちゃった。

 

どうせ出来ない奴はいつまでたっても出来ないままだ。

 

そんな奴に気の毒だからと言って、手を差し伸べる奴は、ほとんどいなかった。

 

あれから、20年以上たつが今でもそう思う。

 

職人のなり手不足、後継者不足

 

人を真面目に育ててこなかったからとか、少子高齢化とか

いろいろ言われているけれど、今なら僕の時のように

 

仕事の奪い合いのような競争は少なく成っているかもしれないな。

 

だからと言って時代が変わるまで、僕はあそこにい続けられるほど

 

タフでなかった。

なので、もう、あそこに居てても仕方がなかったんだな(*^▽^*)