「どちらが正しいか?」より「どちらが楽しいか?」を基準に行動したほうがいいの違和感
みなさん、こんばんは
今日、朝のニュースを見ていて「おおっ~~」と思ったことがある。
僕の青春時代のアイドル菊池桃子さんがストーカー被害に遭ったそうだ。
50過ぎの元タクシー運転手が逮捕されていく様子がはっきりと画面に映っていた。
「へぇ~~、ストーカーってこんな風にテレビではっきりと顔が分かるように報道されることもあるんだな~」って思った。
それで、僕はふとこんなことを思い浮かべた。
最近ネットで発信している一部のカウンセラーのこと。
そういった一部の人たちの文章で「何か物事を判断する時は、どっちが正しいかどうかで判断するのではなく、どっちが楽しいかで判断したほうが上手く行く」という教えをかなりの頻度で目にすることが多くなってきた。
どうやら「正しいことを基準にするのではなく楽しいことを基準に行動した方がうまくいく」という教えが自己啓発界隈で流行っているようだ。
これ、実は僕もなんとなく「そうだな」っと思っていることだ。
今日一日をどう過ごすべきか?ということで悩んだとしますよね。
そこで、「どの過ごし方が正しいのか?」と考えるよりも
「どの過ごし方が楽しいか?」と考えて行動したほうが同じ一日でも後者の方が満足度は高いと思う。
人生で何かを始める時に、何かしらの2択や3択で悩んだ時は、どちらが正しいかよりもどちらが楽しいか?で選んだ方が自分の選択に納得がいく気がする。
なので、「どちらが楽しいかを基準に考える」という教えは分かると言えば分かるんだけど、その教えを自分に向けられた批判の論点をはぐらかす手段として使っている先生を見つけた。
先生は、供給過剰ともいえる自己啓発の業界で目立とうとするあまり、奇をてらった言葉や、きれいで前向きな言葉をいくつも重ね合わせてとてもきわどい発信をしている。
「人に迷惑をかけた方が人生は上手く行く」
「お金は使ってもなくならない。水や空気と同じです。空気は吸ってもなくならないですよね」とね。
常識を覆すという感じの発信は人々の興味を引くことが出来る。
さらに、人は無意識のうちに自分に都合の良い方を選択する。
お金は使ったらなくなる」と言うのは当たり前のことで「お金は使ってもなくならない」は普通に考えておかしいこと。
なのに、そのおかしなことを信じて顧客になってしまう人がいるのだ。
どうして、このような珍理論に騙される人が多いのか?
それは、先生はどんな詭弁や珍理論でも話の勢いで納得させてしまうからだ。
ガマの油売りに医学的な根拠を求めても無駄だということ。
しかし、不特定多数に向けられた、ツッコミどころのある発信に一言モノ申したくなるのが人情だ。
当然のように、いろんなところから批判が入ってくる。
すると、先生はこのように反論していたのだ。
「正しいか間違っているかを基準に考えるとどちらが正しいかで話はこじれるが、楽しいか楽しくないかを基準に考えると一瞬で人を笑顔にする」と。
このように論点を替えてスルリと批判をかわしていた。
つまり、一言モノ申したい人に「それは間違っているよ」と言わせないための詭弁だ。
というわけで、最初に書いた菊池桃子さんにストーカーをした男性の話に戻る。
彼は、ストーカー行為が社会的に正しくないことを知っていたはずだ。多分。
しかし、ストーカー行為をすることを選択してしまった。
自分が正しいと思っていることよりも自分がやりたいことを優先してしまったのだ。
そうして、全国のテレビに自分の姿が放映され、人生に大きな汚点が着いてしまったのではないか?
彼のこれからの人生で大きなマイナスになったのではないだろうか?
「こんなはずではなかった」と思っているかもしれない。
なので、今日僕が言いたいことをまとめると・・・
「正しいかどうかを基準に物事を判断するのではなく、どちらが楽しいかを判断の基準にした方がいい」という教えは、前提条件として社会人としての常識や礼儀がないと、ただの無神経な行動になり、結局は嫌われて損な立場に陥ってしまうということだ。